太平洋の森から NO.25 AIBIKA号
1 2006年8月パプアニューギニア調査旅行
ニューブリテン島ジャキノット湾のマラクル村へ。 清水靖子
背景@
2006年6月から8月のパプアニューギニアでは、原生林への伐採企業による激しい伐採攻勢、二次林からのさらなる伐採。皆伐してのオイル・パームのプランテーション化、オイル・パーム工場の拠点拡大へという大波が押し寄せていました。それは実際私の想像を上回るものでした。丸太の輸出先は、中国、韓国、日本です。オイル・パームの輸出先はEUが中心です。
そのなかでニューブリテン島(四国の2倍ほどの面積)への攻勢を見てみましょう。
奥地は深い原生林の山地ですが、海岸沿いの平地には1970年代から日商岩井、新旭川、晃和木材、マレーシアのRimbunan Hijauリンブナン・ヒジャウ社(RH)などによって伐採されてきました。しかし、原生林を守っている地域もかなりあります。私たちはそれらの村々にかかわってきました。南岸のウボル、クランプン村などです。
日商岩井の子会社ステティンベイ・ランバー社はその中央部の山梨県ほどの広さを伐採してきたのですが、その伐採跡地の北岸一帯はオイル・パームのプランテーション化しています。オイル・パームの搾油工場からは、悪臭が漂い、廃液は海と川を汚染しています。工場はマレーシア系のNew Britain Palm Oil社 (NBPOL)によるものです。地主たちは汚染除去を裁判で訴えています。
現在ニューブリテン島の伐採はRimbunan Hijau社などのマレーシア企業が各地で行っています。これに加えて南岸一帯に、オイル・パームのプランテーションと工場を造っていく計画です(Post Courier2006年6月6日)。
【注:Rimbunan Hijau社は、パプアニューギニアでの伐採量の80%、年間の売上高は最低でも15億ドルと記されている巨大伐採企業。多くの不正取引と伐採で、現在Eco-Forest ForumというNGOのネットワークから訴えられて裁判中です。】
オイル・パームの予定地には、西ニューブリテン州南岸のウボル(南岸の原生林の村)からアミオ(南岸での日商岩井の伐採拠点であったところ)、さらにガスマタ、キャンドリアン地方。東ニューブリテン州はワイド湾、ジャキノット湾、ウボルまで。しかしその前段階として伐採会社は、“アグロ・フォーレストリー”という名前の皆伐プロジェクトをもって村々を騙し、現地側の有力者たちは、「アグロ・フォーレストリーだから問題ないよ」と村々を勧誘しています。
背景A
〜京都議定書の抜け穴としての他国での植林ビジネスの問題点〜
その背景には京都議定書にもとづくCO2削減のための、CO2排出量削減を巡っての排出量取引事業と、CDM(クリーン開発メカニズム)、排出権ビジネスの利権があります。
先進国やその企業が自国でCO2を削減するかわりに、そのひとつの方法として、他国での植林(ユーカリやオイル・パーム植林)をして、CO2を封じこめることにより、自国やその企業によるCO2削減と見なされるという、いわば京都議定書の抜け穴としての、CO2取引が許されています。オイル・パームについて言えば、バイオマス・オイルとして、化石燃料よりもCO2封じこめに有効であるとの理論もこれに加わります。
しかしオイル・パーム・プランテーション化は、そもそも原生林を含む貴重な熱帯雨林の皆伐という前提や、環境破壊の問題があります。まず原生林などが地球の酸素の供給源であり、そもそも温暖化の要因のひとつとして原生林の破壊が温暖化を促進してきたのだということは、知らせないように仕組まれています。さらにオイル・パーム・プランテーションが、その土地の水と滋養を奪い、除草剤・殺虫剤・廃液による水と空気の汚染をもたらして地元の環境を破壊していることなども伏せられています。
京都議定書の抜け穴として、先進国や企業によるCO2売買ビジネス、オイル・パームや、ユーカリ植林ビジネスを、使用すべきではないこと。地球温暖化対策として、CO2吸収植林を利用すべきでないこと。植林木が吸収するCO2で産業排出ガスを差し引きすることによって自国でのCO2削減を怠る口実にすべきではないこと。そのごまかしを知らせることが急遽必要だと、NGOを含めて多方面からの批判が起きています。
“パーム油は環境にやさしい−と言わないで“として、ライオンのCMに対して申し入れ書を出した国際環境FOEや地球・人間環境フォーラム、日本インドネシアNGOネットワーク、熱帯林行動ネットワークの活動もそれです。
背景B
ソマレ首相は欧米や日本の政治家その他にかけあって、自国のパプアニューギニアの土地を、そうした先進国のCO2削減売買の一端として売るというビジネス利益を狙っています。しかし実際はパプアニューギニアの土地は、慣習的土地制度で保護されています。慣習的土地制度内の老人から子どもまで全員が地主なのです。土地の売買は、そう簡単にはいきません。
そこでソマレ首相をはじめ、外国資本側は、土地を登録させて売買可能にする法律を本格的に作成しようとしています。しかし多くの地域の地主たち、NGOはこれに大反対をつづけています。首相は外国では「土地を売るよ」という宣伝をしておいて、地元の政界や地元のリーダーや地主に圧力をかけて、土地を登録させ、オイル・パームづくりに提供せよと村々に迫っているというわけです。さらに首相のJoshua Kalinoe元書記官(元日商岩井の子会社のステティンベイ・ランバー社の秘書)、西ニューブリテン州のClement Nakmai知事が、この推進役として、西ニューブリテンに強力な働きかけをしています。背後にマレーシアの企業があります。
ニューブリテン島の南岸の海沿いの平地は、かつてマレーシア系の企業が軒並み伐採したところでもあります。そしてこれから、Rimbunan Hijau社はじめ、マレーシア企業が、再度の伐採と奥地の原生林の伐採、そしてオイル・パーム・プランテーション化を虎視眈々と狙っているというわけです。
原生林のマラクル村へ調査の旅
8月13日、中継地として下車した北岸の中央部のホスキンス空港近辺は嵐の跡でヤシの木も樹木もなぎ倒されていた。数日前に南岸から山を越えて襲ってきた猛烈な嵐の痕跡だという。南岸の海上では死者も出ていた。
今回の南岸旅行は豪雨にたたられることになるのか?との心配が心をよぎる。
2日間の準備期間を経て、15日の夕方、小型飛行機でジャキノット湾空港に向かう。ナカナイ山系から南は豪雨で着陸地点も見えない。その中を着陸した若いパイロットの操縦技術はすごいと感嘆した。雨の中をマラクル村からDonatus Mola さんが迎えにきてくれていた。今後ずっと村での案内役になってくださる。丘をくだり舟着場へ。そこからジャキノット湾北岸のマラクル村に向かう。20分で村に到着。
村の中央にある小学校の教師のための空き家に宿泊する。夜の闇のなかでランプや、蒲団や食事を先生や村人たちが運んできてくださる。雨の音を聞きながら湿気た部屋と布団で眠りにつく。9日間のマラクル村滞在の1日目だった。
翌日すぐに先生たちから所望されて、小学校の生徒たちに話しをする。子どもたちはマラクル村の中の、さらに7つの村々から、お弁当のイモを抱えて、伝統的な“樹皮傘”を手で頭にかざして雨よけにして通ってくる。樹皮傘とは、ヤシの木(特定の種類)の幹の樹皮をはがした盾型のものである。教室の入り口にはそれぞれの樹皮傘が並べてあって、帰りには間違いなく自分のものを取ってかえるから不思議だ。
マラクル村は、Mengen 語族の村で7つの地域に合計2000人ほどが住んでいる。村の背後はかなり険しい崖の山となっており、その山襞にガーデン(タロイモ、ヤムイモ、サツマイモ、野菜畑)をつくっている。その奥地は原生林である。かつて人々はそうした山中奥深くに居住していたが、次第にジャキノット湾側に移ってきたそうである。といってもまだ完全に海側に降りたわけではない。7つの村のうち、3つの村をのぞいて山の中腹か山頂にある。山に家を建てている理由は、畑と狩の往復や、家の材を運ぶのに便利だからなのだ。ジャキノット湾のながめも素晴らしい。とは言うものの山の上の住居は女たちにとって厳しい。奥地への畑仕事が終わったあと、女たちは今度は海岸の川に降りて行かねばならない。水汲みと、洗濯、食器洗い、身体洗いのために、洗濯物や食器や赤ちゃんを抱えての往復である。男は手ぶらで自分の水浴びだけのために川に行く。
それにしても、海岸の川は透明で豊かな水量を誇るたとえようもなく美しい。その名はスシ川。
遠くから流れてきた川ではなく、海岸の目の前の石灰岩の割れ目からの泉そのものである。深い原生林に降った雨が悠久の年月をかけて石灰岩の帯水層に集められ、石灰岩の割れ目から外に溢れ出たミネラルの豊富な硬質の水であろう。水量はとてつもなく多い。その傍らにはやや上流からの川がスシ川に合流している。
よく見ると女たちはわざわざ泉から湧き出した川辺の方に渡って洗っている。洗濯、身体洗い、
食器洗いだけでなく、野菜洗い、山の木の実、生姜などを洗っている。そこから少し東には小さいがパレロ川が、これまた海岸に伏流水が湧き出してある。他にも砂地から行く筋もの涌き水があちこちにある。「一日に何度も水浴びをするの」「そのたびに山をくだったり登ったり、それでも川で水浴びが好きなの」と女たちが語る。いつでも誰かがのんびりと身体を洗い、何かを洗っている。海岸の砂は細かく、淡いベージ色をしている。石灰岩と堆積層からの土砂が交じって、ジャキノット湾の波に洗われた美しい砂である。浜辺に作りかけのカヌーがあった。カロフィルムの樹の林をそのために海岸沿いにつくっていた。
さらにマラクル村の最西端はマラクル村の一地域のMopuna villageで崖上にある。その崖からは巾の広い滝が白砂海岸にほとばしり落ちている。こんなに水がほとばしっていて、いったい奥地はどんなに深い原生林なのだろうか?と思わずうなってしまう。その透明な流れの中に身を浸すと、その先は海である。不思議な癒しと神秘の世界である。スシ川とこの滝と原生林。マラクル村の森が生んだ魅惑の水は、外部からの来訪者を魅了してやまない。
「今度皆を連れて来るなら11月から3月の間がいい。雨もほとんどない。海で魚とリ、山で狩、タロイモと果物。村の暮しの魅力が堪能できる。」と村人は薦める。すでにオーストラリアからの観光船がラバウル経由で、昨年ここを訪れていた。あるいは滝の水をペットボトルのミネラルウオーター産業が、マラクル村にアプローチしたこともあるという。この件はその後、絶ち切れになったらしい。あるいは豊富な石灰そのものに目をつけた企業がやはり、石灰の採掘を申し込んできた。若い行政官たちが中心になってこれに反対して、署名集めをした。その結果これは中止になった。
あるいは豊富な石灰そのものに目をつけた企業がやはり、石灰の採掘を申し込んできた。若い行政官たちが中心になってこれに反対して、署名集めをした。その結果これは中止になった。
村人のわずかな現金収入源は、魚やタロイモを他地域に細々と売るぐらいで、金銭的には貧しい。他方マラクル村出身には、ラバウルや他の都市で指導的な仕事や収入のある仕事をしている息子・娘たちがかなり多く、そこからの仕送りをあてにしている家族も少なくないという。
原生林のどの村でも言えることだが、伐採を誘致するかわりのオルタナティブな収入の道が重要な課題になってくる。
伐採問題
マラクル村は伐採誘致派(約40%)と、反対派(約60%)にわかれている。誘致派の中心人物は、日頃パルマルマル(ジャキノット空港のある東ポミオ行政地区の中心地)に住んでいる。「今は、ポートモレスビーで伐採会社との交渉にあたっている」と人々は語る。彼はかなり以前からMEMALOという地主会社を組織し、そのchairmanになっている。MEMALOのMeはMengen語族の略。MaはMamusiという内陸部のMengen語族のこと。LoはLoteというUvol語族を意味するのだそうだ。いわば東はマラクル村から西は遠いウボルやタボロ地域までの原生林の地主たちの会社というわけなのだろう。彼は地主会社を作るにあたっては、過去にマラクル村の部族代表者たちにサインをさせてしまっている。またMAMELO地主会社のリーダーたちの名前を聞けば、「森を守る会」が出会ったことのあるウボルやタボロでの誘致派が見事に顔をそろえている。ただし伐採反対派も強い。マラクル村では、若手の優れた行政官たちや若い女性の地主代表、伝統の智恵を持ちながら寡黙な老人の首長たち、女性グループの代表は、伐採反対のリーダーたちである。「ムクス・トロという中央部の地域がMEMA
LOに入っているが、そこは原生林保全地域になっているから伐採はできないはず。」とEUのジャキノットスタッフは言う。
しかし、賛成派は、伐採企業とだけではなく、政府森林省や環境保全省、地方政府役人たちの強力な後押しがある。事態は楽観視できない。私は7つの村々全部をまわった。雨のない日は
1日もなかったが、最も遠い山の上の村人からは「パプアニューギニア人以外で私たちの村にきてくれたのは、あなたが初めてだ。」と感激されて、やっぱり行ってよかったと思った。
質問をしながら話をすすめた。日本に行く丸太がどう使われているか。不正義の伐採・価格移転取引。地主会社と一般の村人との関係の不正事例。Agro Forestryという名のもとの皆伐とオイル・パーム化への攻勢。一時的な現金収入に魅せられて伐採を許してしまった村々の悲劇への道。原生林を保ちながらのオルタナティブへの他の村々の模索例を話す。最後に樹木や果実からの薬・薬膳のつくり方を実演し、人々の興味と質問で集会は最高潮に達する。
質疑応答で、やはりオルタナティブの具体化が議論の中心になる。若者グループが養鶏を始めた。これはいいプロジェクトであると思った。私たちが関わって始めたクランプン村のような、ココナツオイルからの石鹸プロジェクトを始めたいという男性側の意見も強かった。
しかし女性側が反論した。「あなた!そうは言っても、この村のどこに、そのために十分なココナツの実があると言うの?」。たしかにこの村では、石灰岩の崖上の村故にココナツの木が少なかった。ココナツの木は水分と海岸沿いの土壌を好んで育つ。ココアの木の栽培もはじめていて、これは今後の有望な収入源となるであろう。エコツアーという形のコムニティのプロジェクトには、多くが興味をもっていた。マラクル村の伝統の紹介や、滝・川・洞窟・魚釣り・森の探索など。しかしこれを始めるには、マラクル村の共同体の地道な模索と連帯が問われる。来訪者側のありかたも問われる。香辛料のカルダモンを奥地の村で栽培しているので、その実を売る輸送ルートや、「森を守る会」が買うという支援も今後検討するといいと思われる。
雨のおかげでお互いにゆっくり話し合う時間が持てて、今後の「森を守る会」と村々との、関わりあいのための豊かな土台をつくることができた。
2 2006年の砒素問題その後 清水靖子
砒素汚染除去問題をめぐってマタネコ集落の要求にステティンベイ・ランバー社(SBLC)を経営するCS Bos Internationalは答えないまま現在に至っている。6月に住民側は、現地の弁護士Brian Brunton氏との協議を重ねた。「森を守る会」から調査旅行に出かけ清水も同席した。
以下がそのときに決められたことである。Brian Brunton氏は、マタネコ集落の住民のためのGENERAL ADVISER を引きうけることに同意した。Brian Brunton氏がマタネコ集落側に強調したことは以下である。
@この問題の解決には、パプアニューギニア側の住民やNGO・弁護士側が責任を持ってあたる。
A「森を守る会」は過去8年間、砒素問題の調査に全力を注ぎ、日商岩井との汚染除去交渉、その後を引き継いだCS Bos Internationalとの交渉後さらには現地環境保全省に対しても、精力的に汚染除去を要求する交渉をつづけてきた。日本のNGOとして、日本の伐採企業が起こした問題への追求責任を「森を守る会」は十分果たした。ただしひきつづき調査・資料提供の協力、証言への協力は継続する。
Bパプアニューギニア側が汚染除去を求める裁判を起こすにしても「森を守る会」はその費用を負担する必要はない。
C汚染除去は第三者機関のIndependent assessmentと継続したモニターが必要。
D住民側は汚染除去に向けて、政治的圧力を含めて多様な運動を展開すること。共同体の強化。
日々起こっていることを年代記として残していくことも重要。
E被害住民の毛髪の採取をしておいたほうがいいい。
この話し合いを「森を守る会」に持ちかえり、「森を守る会」側もそれに同意した。これを受けて「森を守る会」は、調査の継続として住民の毛髪採取を行った。専門家の見解によると、一般に毛髪中の砒素濃度が0.3ppmを超えると異常値とされる。マタネコ集落の毛髪8人中、5人がそれを超える濃度であり、特に3人は高濃度に汚染されていた。専門家によれば、砒素汚染被害の特徴として、手足の甲に黒い疣状の突起があって、痛みの症状に苦しむ。次回はそうした人々の毛髪の採取をするようにとのアドバイスがあった。
分析結果をもって8月にマタネコ集落を訪れた。数値を見て、住民たちは、かなりのショックを受けていた。特に1.15ppmの高濃度汚染のBさんは最近死亡していたからである。それは私にとっての喪失感でもあった。砒素の被害で死んだのか、彼女から詳細な聞き取りをすることが不可能になった。彼女は6月に私に、「以前泉の水で顔を洗ったときに目が痛くなり、その後目が見えなくなった」と訴え、歩くこともできずに小屋に横たわっていたのだった。
住民は「多くの人々、特に老人たちは、こうやって死んでいく」と嘆く。最近では首長で地主代表だったボラさんもお亡くなりになった。手足の甲の黒い疣状の突起と痛みについては多くの人々が経験していることがわかった。今回はそうした痛みを訴えている人々の何人かの毛髪を採取するようにお願いして、私は他地域の調査に出かけた。
CS Bos International側は、4月に簡易水道(細い鉛管を延長させたもの)を村の2箇所に設置した。しかし導管が細いのと水量が弱く「身体は洗えない」と住民側。汚染されたマタナブブル泉では、あいかわらず野菜や食器を洗い、身体を洗う女や子どもたちでごったがえしていた。帰路再びマタネコ集落での現状調査を計画していたが、豪雨による飛行機便のキャンセルで集落に立ち寄ることができなくなった。村人が採取したものを、人づてに受け取った毛髪サンプルを日本に持って帰って現在分析をして頂いているところである。
3 キャンドリアン地方メレングロ村調査旅行 辻垣正彦
2006年8月26日、今回の目的地メレングロ島に到着。空港のあるキャンドリアンから2
時間の船旅であった。このボートには、マーク・マンドロックさん。斎藤茂氏(友人)、清水靖子氏と私の5人と荷物、それにオペレータが乗って身動きできない状態であり、猛烈な雨の中、ソロモン海のうねりにもまれながらの航行であった。
島では、ミカエルの息子アロン、代表のアンドリュー、ポール(マークのいとこ)や大勢の子どもたちが出迎えてくれた。ここは入り江になっているため、うって変わって穏やかであった。時刻は午後4時、清水さんはイシドロお父さんの家へ、私は広場に面したミカエルの家へ、斎藤さんはさらに奥の無人の一軒家へゴッドフリーと一緒に分宿することとなり荷を下ろす。
雨は間断なく降り続く。ホスキンスからキャンドリアンへ8人乗り小型飛行機がよくランディング出来たものと今、つくづく思う。
この季節、6月から9月までは雨季。今までもアミオやウボル、マラクルへ8月のこの時期に訪問したことはあるが、今回のごとく滞在の4日間、日夜雨が降り続いたということはない。
ほんの10日程前は台風なみの風と雨がこの地方を襲ったそうで、広場の巨大なシンボルの樹が根元から裂け、広場に面した住宅の屋根を直撃、破損している。あらためて熱帯における雨季というものを体験することになった。水着もシュノーケリングの道具も今回は使うことがなかった、残念! しかし、雨の中での島の生活を垣間見ることにはなった。
私の世話になったミカエルの住まいは、高床式住居ではあるが、最早、伝統的家造りではない。
波板鉄板の屋根、製材された板に依る外壁。ベランダに腰掛けていると薄暗くなる直前、夕食が出され、タロ、ヤム、カウカウ(サツマイモ)、それにアイビカのココナツ煮であった。量が多くて食べきれなかったが、皮を剥くと石焼きであり、外皮はカリカリと煎餅のようで中はふっくらとして慣れると味わいの深いものであった。暗くなると寝るしかないので、降り続く雨の音を感じながら就寝。ホールにランプの灯がひとつあるだけ。
翌27日は教会での礼拝に参加。予定より1時間遅れて、マーク・マンドロックさんの司会で始まる。前席は子どもたちがぎっしり。300人ほどの集会(村の人口は約600人)。外にはみ出るほどである。熱心なカトリック信徒の村。電気もないのでマークさんの説教も地声である。聖歌を歌う子どもたちのハモる声も実に良く通る。お母さんたちの子どもたちに対する躾けも厳しいようで無駄な話し声は全くない。現代文明人が失った自然の音と香りがここには確かにある。
午後ミカエルの家のテラスで話していると、マークさんもやってきて、教会を建て直すので「辻垣さんに設計して欲しい」という話になった。土地は今の所から移転して半島状の小高い丘の上である。長崎の島々の教会のように農園からの往き帰り、海から又島のどこからでも見えるところに建てたいようだ。
私の設計したカトリック浜松教会の絵葉書を見て、このようなデザインが好ましいと言う。地元の材料と地元の手と工法と教会を造るならパプアニューギニアだけでなく、南大平洋の国々モデルになる教会建築になるだろうから、大いに協力したいと言ってしまった。
木材はローズウッド、ウォールナット、クイラ、マラスなど森には豊富にあるし、伝統工法の
できる大工さんも居るようである。さて、どうなるか、お楽しみ!
29日朝9時、今回の調査目的のひとつ、川釣りに挑戦。生憎の雨。マークさん、私、オペレータと地元の漁師さんの案内でJOANA川へモーターボートで出かける。ガソリン代、オペレータ代を含めて100K(約4000円)であった。
30分ほどでこの地域最大の川に到達、河口は長雨のため土色に濁っている。対岸がもやで霞んで見える。上流へ10分。支流の合流点のよどみに到着。船上からマークさんと日本から持参した渓流竿4.5mと6mに仕掛けを付け、餌はタロイモの柔らかい部分を練って使う。入れ喰いという訳にはいかない。
しばらくして当たりがあった。印がスーッと流れる。竿をサーッと上げると中々力強い引き。右へ左へ、引っ張られ、魚体を見せない。ようやく姿を現す。20cmくらいの鱗のガッチリした口のとがった鯛であった。白銀の鱗に黒い斑点が見える。これ一匹。次に移動。中州のあるよどみのある所。樹の下から落ちて来る虫を狙って大物がジャンプしている。1mくらいはありそうだ。期待するが待てど暮らせど当たりがない。餌を小さな川蟹に変えると来た。グーッと竿がしなる。中々上がってこない。先ほどより大きい25cmくらいの鯛のようなこれも鱗のしっかりした完璧な魚体。尾鰭も胸鰭も完璧。美しい魚体に見とれる。多雨で大増水、流れも早く全く釣りに適さないこの季節であったが、乾期になれば景観も良く、水も美しく、大いに期待できそうである。約3時間のリバー・フィッシングであったが、また挑戦してみたい。2匹とも焼き魚となって夕食にあがる。その美味しいこと。(メレングロ川釣日記より)
午後、メレングロの対岸に展開されているマレーシア系伐採会社の基地を雨中訪問。モーターボートで10分ほど。丸太が山積みされているのが見える。この地域の森はかつて伐採されたところもあり、現在はそれ以外の森から伐採されている。直径60cm以上、長さは12m以上の丸太が雨に濡れて黒びかりして、いくつもの畝のように積まれている。さすがにぬかるみのなか、作業は行われていない。一段高い丘の上に事務所棟と2棟のマレーシア人用宿舎(長屋風)があり、下にはパプアニューギニア人用の作業小屋と宿舎がある。多くの労働者はハイランドなど遠い地域から来て、劣悪な労働環境と低賃金で働かされている。ミカエルはこの会社の所長付き世話役であり、メレングローからは、大工3名が工事現場で働いているのみであるという。
前回「伐採反対」を明確に表明していた地主の多くは、実は今回の話のなかで、もうひとつのマレーシア企業と伐採権をめぐる話し合いをしていることが分かった。ふたつのマレーシア企業が伐採権の奪い合いをしていた訳である。伐採企業は「アグリ・フォレストリー」(農業も交えた林業開発)という聞こえの良いプロジェクトを提案するが、これに村人がOKを出せば、メレングロ村の森は皆伐され、広大なオイルパーム(アブラヤシ)プランテーションに姿を変えてしまうだろう。マレーシア系伐採企業の「アグリ・フォレストリー」に村人が契約を交わすならば、私たちの訪れているニューブリテン島南岸のジャキノット湾、ウボル、アミオ、キャンドリアン等々の村々も、徐々にオイル・パームのプランテーションで覆われてしまう危険性もある。ソマレ首相の政策であるオイルパーム生産拡大は、この小さなメレングロ村人の心と森を蝕み始めている。
ちなみにインドネシアの例を見てみよう。オイル・パームのプランテーションに反対したにもかかわらず、国の権力と警察を背景に企業によって無理矢理プランテーション化されたインドネシアの村がある。(『アブラヤシ・プランテーション開発の影』2002)「伐採の方がまだましです。伐採なら10年くらいかかって太い樹を切り尽くしたら伐採企業はその土地から去って行く。10年我慢すれば、森がまた少しずつ私たちに返ってくるんです。どんなに荒らされても次の世代か又その次の世代には、また木も大きく成長して、いなくなった動物たちも戻ってくる。
また畑地で商業伐採される可能性はありませんが、プランテーションは別です。森と農地の両方を開発するし、いったん始まると大量の農薬を使い続け、50年でも100年でもこの土地に居座り続けるんです。土地の権利も、土地そのものも、永久に私たちには戻ってこないんです。」
パプアニューギニアは、慣習的土地所有制度で土地は憲法で保障されているので、インドネシアやマレーシア(両国でパームオイルの80%を生産している)のように全土が国策によって簡単にアブラヤシのプランテーション化されるとは思いませんが、地主たちが森と生活との関わりをどう考えるかにかかっている。
それにしても、村人たちの情報はあまりに不足し、正しく決断する材料が乏しいことが気にかかる。EUや日本で需要が急激に拡大しているパームオイル、その波がパプアニューギニアの熱帯雨林に襲いかかっているのだ。安価で大豆より安定収穫が見込まれ、食品原料の風味を変えないと言われているパームオイル。「地球にやさしい」ブームに乗っかって、アイスクリームにもインスタントラーメン、コンビニ弁当、洗剤、コーヒー用クリーム、カレーの素などの調味食品、バター、マーガリン、口紅など植物性油脂にも利用され、私たちの暮らしに深く入り込んでいるパームオイル。私たち消費者側の責任も大きい。
29日早朝、メレングロの人々との別れ。ボートでキャンドリアンに向かう。この日も雨だった。
4 ジェームス・マクドネル氏、逝く
ジェームス・マクドネル氏の訃報を耳にして、しばらくは信ずることができず呆然としてしまいました。「森を守る会」発足以来、いつも共に歩んで来てくださったジェームスさん。今年1月、五反田で清水さんと3人でお会いしたのが、最後になってしまいました。
貴方は、パプアニューギニアからやってくる「森を守る」すべての人々に関わり、集会では必ず通訳を受け持ってくださいました。貴方には信念がありました。「生きるということは、お金だけではなく、世界のすべての人々、特に貧しい人々と仲良く平和に暮らせる環境を創るため努力しなければならない」といつも言っていましたね。
家庭でも良いお父さんだったことでしょう。娘さんの成長を嬉しそうに話していましたね。「娘は数学がとても好きで、その上、建築にも興味を持っている」「辻垣さんのところで修業させようかな・・」と。
2004年、クランプン村のパトリックが来日し、私の故郷、浜松での集会にも、忙しいなか通訳として参加してくださり、名訳者として絶賛を浴びました。
私の実家(150年経った旧家)での会食にも参加され、実に愉快に、楽しく、会を盛り上げてくださいました。最終列車で帰京、お疲れになったことでしょう。
日本文化をこよなく愛し、どんな時、どんな場に於いても真剣に話し合う人でした。
「森を守る会」にとって、とても大切な人を失ってしまいました。大樹でした。
優しい、人なつっこい笑顔を思い出します。本当に残念です。ご冥福をお祈りします。
辻垣 正彦
※ ジェームス・マクドネルさんは、11月16日に、外出先で転倒され、外傷性くも膜下出血と脳挫傷と診断され、最後には肺炎を併発され、11月29日に逝去されました。享年45歳でした。